レモンスカッシュ


どうして憶えて、いないんだろう。
あんなに仲良く、遊んでいたのに。

勢い良く、薄暗い教室の壁に叩きつけられ、アスランは軽くむせ込んだ。
人工の夕日も沈んでしまい、室内を照らすのは造られた月と間近で瞬く星だけ。
昼間はアカデミーで数多くいた生徒達も今頃は、もう帰途に着いているだろう。
アカデミーは全寮制。
その門限の時間も、あと少しできてしまう。
今アカデミーにいるのも、アスランを含め十人程にしかならないだろう。
目の前でむせ込むアスランを冷たい瞳で睨み付け、イザークは二人しかいない部屋の中によく響く声で言った。

「知っているだろうが…俺は貴様が嫌いだ」

胸ぐらを掴み上げられ、壁に押しつけられて、アスランの身体は少し浮いている。
イザークがきっぱりと、微塵も揺るがない声色で、瞳で吐いた言葉に、アスランの喉はひゅっと音をたて、咳が止まる代わりにその双眸から涙が伝った。
闇に浮かぶ翡翠が揺れる。
それに動揺したのはイザークだ。
まさか、アスランが泣きだすとは思っていなかった。
いつものように透かした顔で、いけ好かない笑みを浮かべた顔で、知っているだの、俺も嫌いだだのと言い返してくるのだろうと、思っていた。

イザークは思わず手の力を弛め、それに伴ってアスランの身体はずるずると落ちていく。
口元に掌をあてがい、嗚咽をこらす。
目線が変わったが、アスランはイザークを見上げたまま、懸命に涙を止めようと歯を食い縛った。
だが、それに反して歯は浮き、少しでも気を抜けば身体が崩れると同時に声をあげてしまいそうだ。
イザークは呆然と、アスランと視線を合わせたまま掴んでいた服から手を離す。
あまりにも驚愕した目で見てくるイザークに耐えられず、アスランは瞳を伏せた。
何か言ってくれさえも、慰めるように触れてくれさえもしない。
嘘だと、言って欲しかった。

「っ……」

「…………」

本気で、嫌いだと言った。
そう、思っていたから。
だが、目の前で泣きじゃくるアスランに、そういう気持ちは生まれない。
罪悪感に、満たされる。
イザークはゆっくりとアスランに手を伸ばした。
涙で霞む視界の端に、イザークの腕を認め、アスランの身体がびくりと震える。
ちくりと何かが胸に刺さったが、イザークはそのまま、アスランの頬に手を掛けた。
濡れた頬に更に伝う涙を拭うと、アスランの目元がふっと弛む。
口を覆う掌を退けさせると、熱い吐息を零す唇が露になった。
その唇に、魅せられる。

毎日、顔を合わせる度に軽口を叩き合い、イザークはその度に何か引っ掛かるものを感じていた。
アスランの、所為で。
それが更にイザークを苛々とさせ、未だ幼い少年の心は、それは自分がアスランを嫌いだからだと決め付けた。
実際に、先程まで。
だが今は、イザークの気持ちは揺れていた。
わからない。自分の気持ちが。

吸い寄せられるように、イザークはアスランに口づけた。
驚いたように見開かれる翡翠。

イザークの端麗な顔が、ピントも合わぬ程近くに。
それも、すぐに離れてしまう。
こんなことは、二度目だった。
同じ状況に、アスランは思わず笑みを零す。
戸惑ったようなイザークの表情が、アスランの笑みによって驚いた表情に変わった。
何故笑っているのか。

「………嘘、だ」

やっと、絞りだした声。イザークのその言葉に、アスランはまた涙を流した。

「ッ……よか、た…」

壁に沿って崩れ落ちた身体を抱き留め、イザークはアスランを手近にあった椅子に座らせる。
その向かいに椅子を持ってきてイザークも座った。

「…悪かった」

決まり悪そうに、イザークはアスランから目線を逸らせて呟く。
すでにアスランは泣き止んでいるが、赤くなり少し腫れた目元が痛々しかった。
何故こんなことになってしまったのかもわからずに、イザークは沈黙する。
アスランはふるふると頭を振り、話を変えた。以前から、聞いてみたかったこと。
設置されている時計が示している時間はすでに門限を過ぎ、二人とも教官に叱られることは必至だ。

「イザーク…前、一緒に遊んだことを憶えているか?」

「………いや」

その返答にやっぱりかと零したアスランに、イザークは訝しがるように眉を寄せる。
何が言いたいのか、わからない。
ただ、アスランが泣いてしまったことと、その昔の話は何か関係があるのだろうと憶測するしかなかった。

「昔から父上とエザリアさんは仲がよかったから…」

留学という名目でプラントを離れる以前、アスランは父、パトリックに連れられて大人の集まりに行ったことがあった。
集まりの理由は、仲の良い知人達と、いろいろと話し合う為。
その中に、イザークの母のエザリアがいた。
皆で昼食を食べたり、話をしている大人達だったが、エザリアの息子であるイザークと、アスランは当然暇を持て余す。
食事の時でこそおとなしくしていたが、二人は許しを得て近くの公園へと遊びに出掛けた。
どちらかと言えば、イザークがアスランを引っ張って連れ出して。
大人達は、可愛らしいなと二人の小さな背中を見送った。

「お前、名前は」

「ぁ…アスラン」

公園に着いた途端、じっと瞳を射て言ったイザークの物言いは、まだ小学生程度の少年が発するそれとは違う。
アスランは少し、恐いという印象を抱いた。

「アスランか、俺はイザーク」

「イザーク…」

「アスランはいくつだ?」

「え、と…九歳」

「俺は十だ。俺の方が年上だな」

そんな他愛のない会話をして、イザークは顔を輝かせる。
お兄ちゃんなの?と聞いたアスランに、機嫌をよくしたのだ。

「あぁ、だが、イザークでいいからな」

「わかった」

こくんと頷くアスランは可愛らしい。
イザークはアスランの手を引き、アスランはイザークの、自分よりも大きなその手を離さないように握っていた。




ブランコに腰掛けて、イザークは思い切り漕ぎ始めた。
アスランはその隣のブランコに座り、ゆらゆらと楽しそうに揺らしている。
お互いの両親について聞き合ったり、住んでいるところの話をしたりと話題は尽きない。
何時の間にかアスランの緊張も溶け、イザークに抱いていた恐いという印象もなくなっていた。

「それで父上は…ぁ、イザーク!あれ!」

「ん?…よし!行くぞ!」

ふっと周りを見渡したアスランが、話を中断して指差したのは、誰もいないジャングルジム。
もうすでに日は傾きかけ、橙色の光が公園を包んでいる。

ここにやってきたのが三時前だったから、もう二時間程ブランコで遊んでいたらしい。
新たな遊具に向かいながら、イザークはそう思った。
それに、話は途中だし。

ジャングルジムに登りきり、一番高いところに二人は腰掛けた。
高くなった目線、飛び込んでくる夕陽は人工的なものだが、綺麗だと感じた。

「それで?」

「え?何?イザーク」

「父上は…の続きだ」

あぁと相槌を打ち、アスランは忘れてしまっていた自分に照れたようにはにかんだ。
そして話し続けようとした途端、今度は別の場所から遮断の声。
凛と張ったその声は、暗くなり始めた公園内によく通る。

「イザーク、もう帰ります。降りていらっしゃい」

イザークの母、エザリアがジャングルジムの斜め下に立ち、上を見上げてイザークに…正確には二人に呼び掛ける。
落胆する二人だが、抗えるはずもなく渋々とジャングルジムを降りた。
アスランの父の姿はなく、イザークは思い切り眉を寄せる。

「アスランの父上がまだ…」

「パトリックはまだ他の方々と話があるようなのよ。だけど、お前には関係ないでしょう?」

渋る息子に言い聞かせるように、エザリアはしゃがみこみ視線を同じ位置にして言う。
何も言えずに俯いてしまったイザークが、そんな二人を不安そうに見ていたアスランの手を取った。
突然握られたそれに驚いたのか、アスランはイザークを見る。
イザーク…と小さく名前を呼ばれそちらに顔を向ければ、心細そうな瞳とかち合った。

「…また会えるよな…?」

「当たり前だ!」

怒鳴るような声にぴくりと小さな肩が揺れ、光彩の美しい瞳が濡れる。
イザークは焦ったように手を離し、その身体を抱き締めた。
まぁ、と近くでエザリアが上げた声に、二人の頬が赤く染まる。
だが、それを止めようとはしなかった。

「…イザーク…?」

抱き締められどうすればいいのかわからないらしいアスランが、じっとイザークを見つめる。
するとイザークは身体を離し、そっと顔を近付けて唇に掠めるように口付けた。
驚きに翡翠が見開かれる。
イザークの顔は真っ赤だった。

「必ず、会える。だからその時は…」

アスランの肩に両手を置き言葉を放つ間にも、その頬はイザークにも負けない程真っ赤になっていく。
夕日よりも赤いんじゃないかという二人の顔を、エザリアはあらあらという表情で見つめていた。
そして、アスランが小さく頷く。

俺とまた…遊んでくれるか?

暗闇に慣れた目は、楽しげに…それでもどこか寂しげに話すアスランを捕らえていた。
じっと見つめてくるイザークの表情は驚きを浮かべており、それを見ていられずに窓の外に視線を向ける。
唇はつらつらと、今までずっと胸に秘めていた想いを言うのに必死だったが。

「…アカデミーの入学式で会った時、すぐにわかったよ。お前だって」

入学式の時、首席と次席だった二人は自然と隣に並んでいた。
イザークは不快極まりないという表情で。
アスランは感じた期待を胸に押し込めて。
何がそんなに気になったのかはわからないが、やはりあの口付けがアスランの記憶に強く残ったのだろう。

「忘れているのか?今もまだ…思い出せないか…?」

街の明かりを遠く眺めていた目をイザークへと向けて、アスランは覗き込むように藍眼を見る。
口付けを受けたことは、あまりの恥ずかしさに省いてしまったが、流れは伝えたはずだ。
そう思ってじっと見ているアスランの表情は、あまりにも不器用な笑みだったが、その視線を受けているイザークの顔はどんどん赤く変わっていく。
射し込んでくる微かな明かりにぼやっと浮かぶそれに、アスランは訝しげに首を傾げた。

「イザ…?」

「っ、お…女だと…」

名前を呟こうとした途端、弾けたように声を上げる。
消えていく語尾。こんな様子のイザークは、珍しいの一言でしか表せなかった。
アスランの顔を、次に直視出来なくなったのはイザークだ。
口元に手を当てて、ただ暗い室内に目を這わせる。

覚えていた。探していた。
だが…

「まさか…貴様があの『アスラン』だったのか?」

確認するような声に頷き返され、何とも言えない疲労感がどっと押し寄せる。
説明した方がいいのだろうかとと思いつつ、そんな恥ずかしい真似が出来るか!という反対の声がぐるぐると葛藤を繰り返していた。
結局、イザークの重い口は開いたのだが。

「…探していた。だが、女だと思っていたんだ…貴様を見た時もまさかと思った。だが、男だということは見てわかったし…」

未だ錯乱しているらしい言葉の羅列は、わかりにくく受け取りにくい。
だがアスランは、なんとなく理解することが出来たらしい。
これならあの行動にも合点がいく。

「つまり…当時の俺を女だと勘違いしていて、あんな行動を…?」

問い掛けに対して無言で頷いたイザークに、小さく笑みを零した。
アスランがずっとイザークを想っていたことなど、無駄だったのだ。
嫌いだということを撤回されて少し舞い上がった気持ちが疎ましい。

「…まぁ、そんな昔のことはいいか…。帰ろう。きっと皆心配している」

断ち切るように立ち上がったアスランの下手くそな笑みが、イザークの眉間の皺を深くした。
咄嗟に立ち上がり、口元を覆っていた手で腕を掴む。
目線が逆転し、イザークは下を見たままのアスランを見ることが出来ず思わず抱き締めた。
ひしひしと伝わってくる想いは、鈍感なはずのイザークにも届くほど。

「……その…何だ‥また遊んでやらんこともない」

ぴくりと微かに、腕の中の肩が震える。
少し身体を離したイザークの手が俯いたままのアスランの顎を取り、そっと上を向かせた。
湿り気を帯びた双眸が目に入る。
こんなにも壊れてしまいそうな奴だったのかと、再確認させられた。
頬に掛かった横髪がそれを引き立たせている。
片手は背中に回したまま、イザークは再び口付けた。
至近距離で少し開かれたアスランの瞳が、戸惑いがちに伏せられる。
手はイザークの胸元に添うように当てられ、拒否なのかどうかは窺い知れない。
だが、ついばむように唇を重ね合わせていく内に、その手は制服をぎゅっと握り締めていた。

「…ん…っ‥」

漏らされた甘い響きに、ようやく口付けは終わりを告げる。
名残惜しむように一度軽く吸い付いて離せば、目蓋が震えた。
すっと押し上げられるそれの奥から垣間見えた瞳の色は、美しくイザークの瞳に映る。
まだ躊躇っている二人の気持ちは、甘酸っぱく揺れ動いていた。




END





後書き


完結しました!
結局のところイザークは、記憶の中と性別が違うというだけで、アスパパの名前やアスランの容姿、名前は一致するのに否定していたんです。
それが妙に気になったり…だけど首席は取られてしまっていましたから、意固地になっていたのではないかと推測しています(笑)

長い間付き合って下さってありがとうございました!



まな
05.10〜06.07.09
08.02.28 拍手からNovelに移動